初代女将・堀越ハツが土浦町中城919番地(現在地)に「割烹 霞月楼」を開業。「霞月楼」の名前は、本家であり、先輩格の「割烹 日新楼」の「日」に対し、霞ヶ浦に映る「月」を表した。

(1850~1909)


車は土浦ハイヤー(大正5年開業)のビュイック。



(二代目女将・満寿子をこう呼んでいた)に贈られた。

当時の航空隊には「KG」という内輪の暗号があり、これは霞月楼のことをさしていた。


東京暮らしが長かったこともあり当時はダンディーで鳴らした。

<初代ハツの娘>

航空隊副長時代、新潟出身で関東に身寄りのなかった山本五十六に、正雄・満寿子夫妻はその当時から親代わりのように接してきた。十余年の後、連合艦隊司令長官となった五十六から一通の手紙が届く。昭和16年12月5日付けのその手紙は、太平洋戦争へ突入する真珠湾攻撃直前に旗艦長門から発信されたものであった。
米国駐在武官の経験から、誰よりもアメリカの底力を知る五十六は、日米開戦を目前に複雑な思いの中でしたためたのであろう。「最後の御奉公」という言葉が暗示的である。五十六は昭和18年5月、戦死を遂げるが、その悲報を知ることなく、夫妻は同年の1月に相次いで他界している。

エッケナー博士(右)とレーマン第1船長(中央手前)




その右にアン夫人が見える。右端は佐薙大尉。左端にはヒルス技師。その奥に霞月楼の堀越正雄も見える。



首相を退き、池田勇人とともに遊説の際に立ち寄った。床の間に小川芋銭の絵がかかる松の間にて。